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棋士には見えにくい「将棋」の本質というもの(エピローグ) [将棋]

さて、この秋、将棋界にまた新たな記録が作られた。
第59回奨励会三段リーグ戦において藤井聡太三段が四段昇段を決めた。14歳と2か月での四段昇段は加藤一二三九段の持つ14歳と7か月での4段昇段の記録を実に62年ぶりに更新したことになるので、これはこれで実に素晴らしいことである。
ところが、この嬉しいニュースに何やらケチをつけた人物がいたということを、私はつい最近まで知らなかったのだ。
以前に別な件で取り上げた「A級リーグ指し手一号」のブログ主の伊藤英紀氏である。

もともと棋士という職業は、プロの資格を取ったからと言ってその後の収入の保証が確定しているものではない。プロになってからも厳しい競争が待ち構えているのだ。実際奨励会を卒業して晴れて四段になっても、順位戦で上のクラスに上がるどころか降級点を取り続けてフリークラスに転落し、そのまま30代で引退となってしまった棋士もいるわけで、そのことは奨励会を受験する時点で師匠から保護者ともどもきちんと話されているはずであろうから、伊藤さんの心配はいささか余計なお世話であるように思える。

ただ、そうは言ってもやはり、戦後から昭和、そして平成にかけて繁栄してきたプロ棋界が今後も今の状態を維持できるのか、ということに関しては「不屈の棋士」に登場している棋士のほとんどが、先行きに不安を感じているようだ。
プロ棋士という職業自体はなくならないであろう。あくまで人間同士で勝敗を競い合う競技者として将棋棋士は存在し続けるであろう。
 ただ、問題は棋士の待遇である。
 よく「奨励会に入るだけでも選ばれた存在なのだから、プロ棋士になった人はみな天才の部類。ましてや毎年タイトルを取り続ける羽生さんは天才の中の天才、いやさらなる超天才だ」みたいな言い方をされているのを見かける。
 しかしそのような文脈が、今後も通用するのだろうか。
 三平方の定理を証明したピタゴラスや、万有引力の法則を発見したニュートンはまさに歴史に名を遺す天才数学者であるが、それはその時代の先駆者としての価値を認められているからに他ならない。今は逆に三平方の定理を知らなければ「中学でちゃんと勉強したのか」と馬鹿にされたりする始末だ。
 プロ棋士のほとんどが負けてしまうような将棋ソフトが作られ、さらにはそれと似たようなレベルの将棋ソフトが他にも作られていく現状があり、さらにそのソフトのレベルが年々上がっているという中で、それでも「プロ棋士のすべてが天才」という価値観が保たれることには、正直、違和感を覚えざるを得ないものである。
 実際そうした価値観のもとで棋界を隆盛させてきた傾向があることは紛れもない事実だ。そしてその価値観が時代の流れによって変わろうとしている。
 単にアマチュアよりも将棋が強い、というだけならもはやソフトがあれば十分なのだ。
 これからの棋士は、今まで以上に将棋に対する情熱を将棋ファンと世間にアピールしていかなければ生き残れないような気がする。
 ・・・そう、例えば来月映画が公開される「聖の青春」の村山聖のような情熱を。

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