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親心と自立 [日記・雑感]

 
 しろがねもこがねも玉も何せむに 勝れる宝 子にしかめやも

 (銀や金や宝石やら、そんなものはどうでもいい、子どもに勝る宝なんて他にはないよ)
                                                 
                                     ― 山上憶良「子等を思ふ歌」より

 さて今年も年が明けた。
 とはいっても、自分の身の回りのことが急によくなるわけでも、また急に悪くなるわけでもないものだと、最近になって思うようになったものだ。
 
 「2011年は大変な年であった。2012年はいい年にしよう」
 ・・・なんて言うけれども、そもそもこういう区切りって何なのよ、って思うことがある。
 むしろ人間社会にこういう区切りが設けられているが故、却って煩わしいことが増えているような気がしないでもない。

 しかし現実にこういう区切りのある社会で生きてきたのだから、これからもそうするよりないのであろうが。
 
 さて、いつものようにネット将棋をやりだすと、久しぶりにMさんが対局しているのを見掛けた。この人とは数年前に私が通っていた将棋教室で出会った。事情でその教室は今はないが、たまに24でお会いして、チャットで近況を話したりしている。この日もMさんの将棋が終わるのを見届けてからあいさつし、チャットで将棋の感想やら近況やらを話した。
 
 Mさんには高2の息子さんがいる。息子さんも将棋が趣味で.私は彼とも何度かその将棋教室で指している。一時期はプロ棋士になりたいと思っていたようだが、残念ながら奨励会のレベルは彼には少し高かったようで、中3の時点で奨励会に行くのはあきらめたようだ。

 で、その息子さんとも私はしばらくお会いしていないので、その後どうしているのかと思いMさんに尋ねてみた。とりあえず元気で学校に通っているようで、大学にも進学する予定だという。
 それは何よりで、と思っていたのだが、Mさんは何やら息子さんに不満があるご様子だ。

 「まあ、別にそんなすごいことは要求するつもりはないんですがね・・・何というか、もっとしっかりしてほしいというか。単純なことでもいいから、毎日続けてもらいたいですね」
 Mさんのこの思いは、息子さんがプロ棋士になりたいと言いだしたことがそもそもの発端だ。息子さんはそれなりに強かったが奨励会を受験するようなレベルではなかった。そこで将棋教室の講師であるプロの先生がMさんの息子さんにある課題を与えた。毎日プロ棋士の棋譜を、出来るだけたくさん並べなさい、ということだった。だがMさんに言わせると、息子さんは毎日並べるなんて出来なかったらしい。まあその件は、とりあえず中学校の時点で終わったことだから責めるつもりはないのだが、とにかく親からみると、もっとしっかりしてほしいとのことだった。

 「でも、もう大人に近い年齢なんだから、少しはちゃんと考えてるでしょう。あんまり心配しないでほっておいたらいいのに」
 私がそういうとMさんはこう切り返してきたのだ。
 「それはそうですが、うちのはまだ、自分で考えられるようなレベルに達してはいませんから。だから最低限、基本的なことが毎日出来るようにならないうちは、自分で考えるなんてダメでしょう」

 
 うーむ。自分で考えて自分の意志で行動することが自立の始まりであると思うのだが・・・基本的なことが毎日できるようになるまで、自立できないのだったら、それは大変なことだろうな。自立できない人間だらけですよ。極端なこと言っちゃうと、生まれつき重度の障害を持つ人は絶対自立なんてありえないってことになるよ
(だってそういう人が基本的なこと毎日同じように続けられる保証なんてないし)

 ・・・とまあこういう考えが頭をよぎったが、まあそれも、生真面目なМさんの息子さんに対する思いの強さから発せられる考えなんだろうなと思い、あまり余計なことは言わずに、そのままお開きになった次第である。


 木の上に 立って見ること 出来ぬ親                minorin2
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やっと更新。 [日記・雑感]

 今年も残すところあと一カ月となりましたが…。
 とりあえずこのブログ、中途半端になってしまうのも何なので、また書かせていただきます。

 今年は何と言っても東日本の震災、そして福島の原発事故という人々を震撼させる出来事があった年であった。
 大地震の後の津波がいかに恐ろしいものなのかというのを、目の当たりにさせられた感じである。
 原発事故も、完全に津波の怖さを軽視していたから、起こったようなものだろう。
 もちろん東電の責任は大変重く、責められて当然なのだが、津波の恐ろしさを軽視していたのは、多かれ少なかれわれわれ日本人全体であったろうと思う。
 
 「想定外の出来事であった」
 福島の原発事故の際、政府や保安院の会見でよく言われた言葉である。
 確かにあんな大きな津波が突如として襲ってくるなどということを常日頃から考えて過ごすはずはない。
 地震の規模も観測史上最大級のものであったのだ。

 だがしかし、可能性として、果たして本当に「想定できない」ことであったのだろうか。
 地震というものは地球のとてつもない長い歴史の中で常に起こり続けてきた自然現象である。
 過去百年、二百年の間に今回のような大地震が起こってないからと言って、地球の歴史からみればそれは
「わずか百年、二百年の間に日本列島では起きなかったこと」にすぎないのだろう。

 だから厳密にいえば今回の地震と津波に関して使われた「想定外」という言葉の意味するところは、想定できなかった、ではなく、「そこまで想定しようとしなかった」が正しいのである。
 ではなぜ、想定しようとしなかったかと言えば、何のことはない。戦後の日本が市民の安全よりも経済活動に大きな比重を置き続けてきたことの象徴の一つが、あの原発事故なのではないか。
 日本はいかに大きなリスクを背負って、原子力発電なるものを行ってきたことであろうか…そのことを、あの3月11日の出来事が起こる前に、より多くの人が気づいていれば、日本の未来も多少は違うものになっていたかもしれないが、時すでに遅しである。

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めでたくもあり・・・ [日記・雑感]

 新年明けましておめでとうございます。

 今ネットであることに嵌っていて、正直ブログ更新が面倒くさいのではありますが、これからも折を見てちょこちょこ更新していこうと思いますので よろしくお願いいたします。

 さてネットと言えば、私は将棋倶楽部24で将棋を指すことが多い。(最近はヤフーの将棋が以前よりも盤面が見やすくなったのでヤフーでも指すようになった。)
 その将棋倶楽部24で知り合いになってチャットで将棋以外の話をする友人も結構いる。(実際は顔も名前も知らないのだが、年がいくつでどこに住んでいるのかぐらいはお互い教え合っている)
 昨夜も24で知り合いの将棋を観戦に行ったら、もう一人やってきて対局が終わった後、3人で雑談をしていた。するとAさんがふいにこんなことを言い出した。
 「いやー、この一週間で2000km以上も走って、疲れたよー」
 走った、というのは車を運転したという意味らしい。.
 Aさんのおばあさんが年末に急に具合が悪くなり、Aさんは30日に実家に見舞いに行き大晦日にいったん自宅に戻った。だが年明けて2日におばあさんの訃報が伝わりまた実家へ行き、5日の夜に自宅へ戻ってきたらしい。

 「俺だけ明日から初仕事なんだけどさー、仕事場で皆にあったらこういうときなんて言えばいいのかなあ。・・・流石にあけましておめでとうございます、とは言いづらいじゃん」
 確かにその通りである。まあ職場の人たちはほとんど事情を知っているだろうから、「今年もよろしくお願いします」とだけ言えばいいんじゃないの、と私ともう一人のCさんは言ってあげたのであった。
 
  門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし

 ・・・何気に昨日はこの和歌の意味を改めて感じさせられたものである
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患者の安全と病院の保身 [日記・雑感]

 ・・・退院してから2カ月も経っている。正直、早いものだなあ、という感じです。
 
 病院に5か月も入院していると、入院する前の日常生活の感覚を取り戻すまでが大変だった。
 たとえば半年前は、パソコンをずっと見ていると疲れるので、時々ソファに横になって休憩をとって、しばらくしてまた車いすに座ってパソコンの前へ…ということをしていた。
 ところが・・・家に戻ってから3日目ぐらいに、ソファに横になったのだが、15分ぐらいたって起き上がろうとするとこれが実に至難の技であった。起き上がってソファに座ろうとすると、お尻がすべって絨毯の上に転がってしまう。いったんソファから落ちてしまうと、そこから何とか立ち上がって車いすに座りなおすのも容易ではない。何とか立ち上がれそうになるのだが、足に踏ん張りが利かずに結局倒れてしまう。これを何度かやっているうちに疲れてくるので、絨毯の上に座って5分ぐらい休みをとってからまた車いすに座るのを目指すのである。
 なんだかんだで何とか車いすに座れたのだが、結局この時は30分以上かかっていた。
 
 だからベッドから起きあがるのも大変であった。退院する前に病院の先生の勧めで、リクライニングのベッドを購入していた。しかしリクライニングで体を起こしたとしても、自力で起き上がれる力があるわけではないから、そこからベッドに座りなおしてベッドのそばにある車いすに体を移動させるのはやはり大変なのである。たいていはベッドから足をおろしてベッドについている柵の間に座ろうとしているうちに、お尻がストンと床の上に…というパターンになるのである。そうなるとそこからまた、床の上から車いすに移動しなければならなくなる。ましてや寝起きというのはだいたいトイレに行きたくなるもので、便意をこらえながら動かしにくい体を何とか動かすので四苦八苦である。現に退院してからすでに二度ほどトイレまで我慢できなかった。まあベッドからは完全に降りていたのでふとんが無事だったのが不幸中の幸いといったところか。

 入院している間はどうだったのかと言えば、結局自分一人でやろうとすると危ないというので、ベッドから起きるときはナースコールを押すように言われていた。別に一人でやってもうまくいけばいいのだが、うまく行かずに
床に座り込んでいる現場を目撃されたときには、もう大騒ぎである。別に転んで床に落ちたというわけではないのだが、どうにも病院のスタッフには、普段車いすに座っている患者が床に座っている、ということ自体がすでに危険な状態、という思い込みがあるようで、少々迷惑な気がしたものだ。

 病院にいる間は安全だとしても、退院した後で患者さんが生活していく上で苦労するようでは、そもそも何のためのリハビリ病棟なのであろうか、という気がしてならない。現に退院して2カ月たった今では、まだ完全ではないものの、だいぶスムーズにベッドやソファから車いすに移動できるようになってきている。自分で必死こいてやっているうちに、多少は足腰に力がついてきたのだろう。
 結局は、病院内ではなるべく事故を起こしてほしくはないという、保身的な態度なのだろうか。少なくとも、親身な立場で患者さんのことを思って看護しているようには到底思えないようなスタッフが多かった。
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無事退院。 [日記・雑感]

 いやはや・・・。何と、半年ぶりのブログ更新になってしまうとは、夢にも思わなんだ。
 もともと、マメな作業が大嫌いな私ではあるが、今回は別にサボっていたわけではありません。

 以前にも書いたように、私は数年前から頸椎症性脊髄症という症状に悩まされていた。地元の市民病院の整形外科の医師に定期的に診察を受けていたが、その医師は敢えて外科的な治療をする必要はない、と判断し、症状を緩和させるための薬を処方しながら様子を見つづけていた。
 ところが、去年の7月に、その医師が病院を退職することになり、大阪の病院に紹介状を書いてもらったわけだが、このことが大きな転機になったのである。
 8月に 2度ほど検査して出た結果は、「頸椎の圧迫がかなり強くなっている部分があるので、早く手術をしたほうがいい」という診断だった。そして、そこの病院の医師は、大阪けいさつ病院に頸椎の手術の専門の医師がいるから、と言って新たに紹介状を書いてくれた。

 そして9月の8日に大阪けいさつ病院へ。整形外科の原田武雄という医師は、8月に撮ったMRIの画像を見るなり、次のように述べた。
「・・・これはもう、圧迫されている頸椎の中の脊髄の部分がかなり傷ついてる感じやな。なんで、こんなになるまで頑張ってたんですか?」
 
 別に好き好んで頑張っていたわけではない。敢えて言うなら、地元の病院の医師に頑張らされていただけである。ただ、その医師に頑張らされ続けていることに本気で疑問を抱かなかった自分にも、落ち度があったことは否めないだろう。

 その後検査入院をして、改めて脊髄の傷つき具合を確認した結果、これ以上悪くならないためにもすぐに手術が必要だということになり、10月8日に頸椎の手術をした。そして、術後3か月ほど、首を固定する必要があるので、術後一週間ぐらいで、長期入院が可能な、北大阪けいさつ病院のリハビリテーション科に移動した。執刀した原田先生は、そこのリハビリテーション科の主任であった。
 今年の1月8日、予定通り3カ月で首の固定は取れた。2月の10日に一応先生のほうから退院許可は出たが、家族とも話し合って入院期限ぎりぎりまでリハビリのために置いてもらうことにした。結局、退院したのは3月13日。入院期日の1日前である。

 私は生まれながらにして身体障害者ではあるが、5か月以上も入院をしたのは40年の人生で初めての体験だった。折を見て、この間の体験や考えさせられたことを、いろいろと書き綴っていきたいと思う。

負けるから出来るギャンブル [日記・雑感]

 大阪のパチンコ店で放火事件があった。逮捕された男には数百万の借金があったようで、・・・まあ、たぶん、負けた腹いせにやったんだろうと思う。
 パチンコ依存症になって多額の借金をかかえている人も多いと聞く。その一方でテレビでパチンコのCMをよくやるようになったり、攻略法の雑誌がコンビニに結構売られていたりと、パチンコをやろう(やらせよう)という雰囲気も何となくあるのも事実だ。
 まあやるからには当然勝ちたいわけで、借金作ってまで打っている人たちも負けるためにやっているわけではない。負けた分を取り返そうと思ってやっているうちに、負けの金額が余計に膨れ上がっていくだけのことだ。

 ・・・客の側はみんなできるだけ勝ちたい、と思ってデータやら回転率やら細かく調べてまでやっている客も多いわけですが、ではパチンコ店側から見たらどうなんでしょうね。
 最近のパチンコ台は液晶画面とかかなり多彩なアレンジが施されているので高価である。一台2、30万はするそうだ。仮にあるパチンコ店でひと月に30台新しい台を買ったとしたらそれだけで六百万から九百万の出費である。それと併せてひと月の電気代(店をやっている以上すべての台に電源が入れてある)、そして従業員の給料、そして店の利益も考える。

 ・・・まあ勝たせるわけにはいかないわな。常識的に考えてさ(笑)
 私は競馬には詳しくないのでよくわからんけど、競馬だって、みんなが新聞の予想どおり的中させてたら、はっきりいってJRAなんて存続してないだろうし(笑)

 多くの人たちがそれなりに負け続けているから、ギャンブルがずっと楽しめるわけだな。
 負けてもともと、と言う言葉は、実にいい言葉です。


投票 [日記・雑感]

 昨日は兵庫県の知事選だった。私もプロ野球のデーゲーム中継を見たあとで、近くの投票所に行ってきた。
 今は選挙の開票状況もネットで見られるようになっている。そこを見ると得票数だけでなく、各地区の人口、有権者数、投票者数がすべて分かるようになっている。当然、投票率が出されていて、30パーセント台のところがほとんどであった。私の住んでいる市も、31.9%だった。
 まあ確かに、投票をしない人たちの気持ちもわからなくはない。選挙の時だけはマニフェストやら公約やらと市民に説明をして歩くが、いざ政治を担当するようになると、普段どのように政治に取り組んでいるのかが、ほとんど我々市民に伝わってこない。時たま伝わってきたかと思えば、収賄容疑で逮捕されたとかいう不祥事ばかりで、こんなんで「清き一票をお願いします!」と言われても、投票する気も失せるというものだろう。(まあ伝わってこないのは今の報道の在り方にも問題があるのだろうが)

 だがその一方で、せっかく持っている投票権を行使しないというのも、少しもったいない気もするのだ。もちろん投票しない自由というのもある。今回の立候補者の中には、私のポリシーにあった人がいない、という明確な動機で投票しないというのなら、なんら問題もないと思う。しかし、そうではなくて、単なる政治への無関心さから「別に投票しなくてもいいじゃん」というのであれば、それはまずいと思う。投票率が30パーセントということは、7割近くの有権者が投票していないという状況だ。にもかかわらず、現行の制度では、残りの3割で投票された得票数によって施政担当者が決まる。だから投票しなかった人たちは、選挙によって出された結果をそのまま了承したということになってしまうのである。・・・こうして、我々の生活に関係する大切な法案や政策などが、有権者が政治に無関心なままでどんどん決定していってしまうわけだ。

 去年亡くなられた筑紫哲也さんが、かって「NEWS23」で次のようなことを言っていた。
 ・・・確かにいざ投票に行っても、立候補者の中に選びたい人、この人ならば、と言う人がいないのならば、投票をしてもしょうがないという気持ちになるのもわからなくはない。だが、考え方を変えてみてほしい。どの立候補者もだめだけれども、せめて一番ましだと思える人に投票をするというのも一つの選択の方法である・・・
 
 なんだかスーパーの見切り品の中から一番ましな品物を選ぶような感じではあるが、それも現時点では最善の選択なのかもしれない。

優しきイナズマ(3) [日記・雑感]

 午前中は室田さんと井道さんがそれぞれ、お客さんと二人でペアを組んで対局するという企画だった。ペアを組む相手はじゃんけんで勝ち残った人なので棋力がまちまちである。お客さんがとんでもない手を指すと、解説の淡路九段がけっこう容赦ない突っ込みを入れていたのが面白かった。
 午後になると、きらりっ娘の3人と村田さんと森安さん(女流三段)の女流陣の他に、福崎九段と稲葉四段が加わってトークショーのようなものが始まった。お客さんからのアンケートによる質問に答えるコーナーがあって、三問目に「理想のタイプは」というのが出ると森安さんが「さて、後は若い人たちに任せてー私たちは失礼しましょうかー」と福崎九段を連れて退却した。その後で絵を描くコーナーがあったのだが、稲葉四段は絵を描くのが大の苦手らしくて、お題が出るたびに頭を抱えながら描いていた。稲葉四段が描いた馬はどうみても犬だった。
 
 2時半になるとティータイムというのがあった。4階の多目的ルームに移って女流棋士と一緒にお茶を飲みながら歓談しようということである。会場へ行くとテーブルにはペットボトルの飲み物と紙コップ、そしてお菓子が用意されていた。
 私は入口からわりと近くの場所でヘルパーさんにお茶を注いでもらって飲んでいた。人がたくさん集まりだした頃に女流棋士と女性の研修会員らがやってきた。そして香奈ちゃんがたまたま私のいるテーブルにやってきたのだった。 
 香奈ちゃんは私のことを見ると、「あっ」と言ってぺこりと会釈した。私も頭を下げた。この日の来客数は100人ぐらいいたので、すぐにほかの人に呼ばれてどこかへ行ってしまうんだろうなあ、なんて思っていたのだが、なぜだか香奈ちゃんは私のそばにいた。そこで私は自分から香奈ちゃんに話しかけてみた。香奈ちゃんはもともと話すのはあまり得意な方ではないが、2,3分ぐらいだが楽しそうに話してくれた。
 話の途中で私はふと思い出して、鞄の中から扇子を取りだして香奈ちゃんに渡した。香奈ちゃんは扇子を広げて自分の揮毫が書かれてあるのをみて「わあ、ありがとうございます」と嬉しそうに言った。2年ぐらい前に買ったものだった。
 話しているうちに香奈ちゃんに記念撮影やサインを頼む人たちがやってきだした。さすがは倉敷藤花である。まだ表情が少し硬いときもあったりするが、撮影とサインをこなす様子はタレント並みに慣れていた。
 その様子を見ているうちに、せっかくだから私も何かにサインをしてもらおうかと思って、鞄を取りだして中を見たときに、ふと扇子がないことに気づく。香奈ちゃんから扇子を返してもらったのははっきりと覚えているのだが、そのあとは話に夢中になっていたせいか、記憶にないのだ。テーブルの上や近くの床の上を探してみたが、残念ながらどこにも見当たらないのだ。ヘルパーさんにも一緒に探してもらった。
 まあこれだけの人数がいるのであるから、扇子がテーブルの上や床に落ちていたりしたら、持っていかれても文句は言えないだろう、などと考えていた。私としても手先の感覚が少しまひしているために、香奈ちゃんのやや小さめの扇子をはっきりと鞄の中にしまったか定かでないのだ。財布を落としてしまうよりはましかな、などと思っていた。
 ふと気づくと、サインと写真が一段落した香奈ちゃんにヘルパーさんが穏やかな顔で話していた。ヘルパーさんの話を聞いた香奈ちゃんは「え、そうなんですか」と答えて私のそばにやってきた。どうやら香奈ちゃんに私の扇子がなくなったことを伝えたらしい。ヘルパーさんにしてみれば一応香奈ちゃんにも聞いておいたほうがいいと思ったのだろう。だが私は、他のお客さんの相手もしなくてはいけない香奈ちゃんに悪いなと思った。香奈ちゃんは私の座っている周辺を少し探そうとしてくれたが、すぐにまた別なお客さんにサインを頼まれて別な場所に行った。
 ヘルパーさんがトイレか何かに行っていて私が一人でいると、香奈ちゃんが戻ってきて「扇子見つかりましたか?」と心配そうに聞いてきた。見つかってないことを伝えると、またテーブルの下などを一生懸命探そうとしている。対局時以外はメガネをかけていない香奈ちゃんはけっこう見えづらいはずだ。私は香奈ちゃんに言った。
 「確かにあの扇子は結構大事にしてたものだけど、まあ仕方がないよ。よかったらまた今度あれと同じ揮毫の扇子を書いて売り出してよ。買うからさ。探してくれてありがとう」
 そう言うと香奈ちゃんはにっこりとほほ笑んだ。そして戻ってきたヘルパーさんにお願いして一緒に写真を撮ってもらった。

 ・・・やがてティータイム終了の時間になり、他のお客さんたちが5階の和室に戻るために移動をし始めた。私とヘルパーさんは混雑を避けるために少しの間待っていた。ふと気付くと、人がほとんどいなくなった部屋の中を香奈ちゃんがあわてた様子でまたテーブルの下などを探しているのだった。そして香奈ちゃんは部屋から出て行こうとしていた先輩の村田さんを呼び止めて私の扇子のことを話したようであった。村田さんも私の所へ来て、申し訳ございませんと謝ってくれていた。
 和室に戻って次のイベントが始まるのを待っている間、私は香奈ちゃんのことを考えていた。・・・まだ17歳とは言え、いまや将棋ファンの間では全国的に有名になりつつあるスター棋士だ。そんな彼女が、忙しい合間を縫って私の扇子を一生懸命探そうとしてくれたのだった。私は一通り探したけれど何となくあきらめてしまった自分のことが恥ずかしく思えてきた。それこそあの部屋にいる人たちすべてに聞いて回るべきだったのかもしれない。
 出雲のイナズマと言われている香奈ちゃんの気持ちの優しさとひたむきさに私はとても感動したのであった。

 すべてのイベントが終了した後、私はトイレに行ったりしていたために、私が和室を出るころには他のお客さんはすでにいなくなっていて会場はひっそりとしていた。私がヘルパーさんと出ていくと、女流棋士たちが最後のお客さんを見送るためにエレベーターの前で待っていた。一番右寄りに香奈ちゃんがいた。
 私は他の女流棋士の人たちがいるにもかかわらず、香奈ちゃんの前を通る時に香奈ちゃんに向かって「がんばってねえー!」と言って手を振った。香奈ちゃんは少し照れくさそうに笑って「はい!」と答えてくれた。

 香奈ちゃん、本当にどうもありがとう。[わーい(嬉しい顔)]これからもがんばってください。

優しきイナズマ(2) [日記・雑感]

あやめ祭の当日、実は私の気分はあまりいいとは言えなかった。別に体調が悪かったわけではない。
 その前の週の火曜日、外出するときに使っていた電動車いすが故障したのである。すぐに修理の手配をしたが、修理のためには車いすをその業社に預けたりする関係上、一週間はかかるとのことで、日曜日の外出までには間に合いそうにもない。修理している間の代わりの車いすを持って来てくれたのだが、電動車いすが置いてないとのことで、普通の介護用の車いすで出かけることになってしまった。外出介護のヘルパーさんが来てくれることになっていたので行けないというわけではないが、やはりずっと車いすを押してもらわないと自由に移動できないというのは不便なものなのである。
 そういうわけで日曜日は、介護用の車いすを押してもらいながら関西将棋会館に行った。
 会館につくと、すでにかなりの人たちが受付のところに並んでいた。受付のところには村田さんもいた。私の顔を見るなり、「あー覚えてますよ」と笑いながら言ってくれた。尼崎で村田さんからチケットを買ったのは、もう2か月以上も前のことだ。

 受付を済ませてエレベーターのある方向に行こうとすると、
「おはようございますー」
と言って記念品を私のところに持って来てくれた方がいた。里見さんである。(以下、香奈ちゃんと表記します)

(え?・・・いきなり、香奈ちゃん登場??・・・ちょっとまってよー。こ、心の準備が・・・)
 ・・・まあ、状況からしてわざわざ私だけのために香奈ちゃんが来てくれたのではないことぐらいはすぐに理解できたのだが、それでも私の場合は、他のお客さんと違い座っている状態なので、いわゆる手渡し的な感じにはならない。私が座っている位置まで彼女が近づいてくる感じになるので、正直なところ嬉しいのを通り越して、緊張しまくりであった。
 実は私は、3月のきらりっこファンフェスタに行った時に、もちろん香奈ちゃんを長いこと見れたのはうれしかったのだが、車いすに乗っている私のためにその他の関係者の方々がいろいろ気を使ってくれたこともうれしかったので、香奈ちゃんの日記のコメント欄のところに、そのときの皆さんへの感謝の気持ちを書いたのだった。

 記念品の入った袋を受け取ってから私は香奈ちゃんのことを見た。香奈ちゃんは私のそばから離れずに、黙って私のことを見ていた。何か言いたげな様子に見えた。たぶんブログのコメントを読んでくれたんだろう。私はまだ緊張していたが、「いつもブログ読んでますよ」と声をかけた。「あっ、はい。ありがとうございますー」と香奈ちゃんは笑顔で言った。
 エレベーターと階段の前のあたりはこのときかなり混んでいたので、さすがにいつまでもこうしているわけにもいかない。香奈ちゃんにも仕事がいっぱいあるだろうから、もう少しお話ししたかったが、エレベーターで5階の和室(イベント会場)に上がることにした。
 ・・・およそ5年ぶりに間近で見た香奈ちゃんは、当たり前だが背丈も髪も伸びて、立派な女性に成長していた。
(つづく)

優しきイナズマ(1) [日記・雑感]

 ひとまず創作のほうは置いておいて、先週の日曜日のことを書きたいと思う。
 6月21日に、関西将棋会館で「関西女流あやめ祭」というのが行われて、私も参加してきました。
 私のお目当ては・・・里見香奈倉敷藤花である。
 
 私が里見さんと初めて会ったのは今から5年前のこと。
 将棋の日のイベントが関西将棋会館で行われ、佐藤康光九段のサイン会があると言うので、東京にいたころから佐藤将棋のファンだった私は、当時乗り始めて2カ月ぐらいの電動車いすに乗って、大阪に出かけて行った。
 将棋会館に着いたのは3時半ごろだったと思う。既にサイン会は始まっていて、サインを求める人たちが一階に結構並んでいた。間に合うかなと心配したが、無事佐藤さんの書物に「研鑽」と揮毫をしてもらって一段落。
 せっかく会館まで来たのだから、他にも何か買って帰ろうかなと思い、一階の販売部によった。詰将棋の本をあれこれ見ていると、何やら近くで楽しそうに会話をしながら将棋の本を見ている父と娘二人(ん?どこかで読んだようなお話ですね)がいることに気づく。やがて私が本を2冊選んでレジのほうに向かった。私が店員の人にお金を払っているうちにその親子3人も私の後ろに並んだのを気配で感じたが、車いすに乗っているのでちらりと振り返ったりする余裕はなかったので、財布にお金をしまって本を受け取るまでその3人の顔を見ていなかったのだった。
 さて、いざ電動のレバーを握ってバックしようと後ろを見やると、ショートカットの中学生ぐらいの女の子がちょっと心配そうな顔で私のことを見ていた。女の子の顔を見ているうちにとっさに「あれ」という声が出てしまったのを覚えている。その頃高橋和さんが連載していたエッセイで紹介していたのを読んでいたので、その年の9月に女流棋士になったばかりの里見香奈さんであるということがすぐにわかったのであった。このとき里見さんは将棋の日のイベントでペア将棋を公開対局で指して、一仕事終えたところだったのだ。

 この5年間の里見さんの活躍ぶりは周知の通りだが、私も思わぬところで里見さんに会ったこともあって、何となく彼女のことを応援していたのだが、本格的に応援するようになったのは「きらりっ娘のそよ風日記」を読むようになってからであった。井道千尋さん、室田伊緒さん、そして里見さんの3人がそれぞれのペースで日記を書いている。里見さんの文章を読んでいるうちに何というか「この子は無駄な欲のない子なんだな」と思うようになったのである。3人ともまだ若いし、将棋以外にもいろいろとやりたいことがあるのは当然で、里見さんも将棋だけやっているわけではない。ただ、他のお二人に比べるといわゆる「ないものねだり」をするようなところが全く感じられないのだ。いつも「こんな風に清らかな気持ちでいられたらいいな」と感心しながら読んでいる。こうなると、時々テレビのインタビューでちょっとはっきりしない声でぼそぼそとしゃべるのを見ても、逆に心地よく聞こえてくるから、これはもうほとんど病気である(笑)。香奈病にかかりだしてからすでに2年ぐらいたつ。
  
 先日のあやめ祭に行くことになったきっかけは、今年の3月に行われた「きらりっ娘ファンフェスタ」に参加したことである。例のそよ風日記で前もって参加者を募集していたので、自分はもうおっさんだが恥を忍んで介護の人を連れて里見さんを見に行くこととした。いざ行ってみると参加者70人のうちの半分以上が自分より高齢の男性だったので安心した(笑)。そこであやめ祭の案内もしていたので、結局尼崎でやっている正棋会に来ていた村田智穂さんからチケットを買って、行くことにしたのであった。
(つづく)

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